2020.08.06
8月6日の朝を迎えました。今朝は、オンラインによる礼拝を行い、静かに祈る時間をそれぞれの場でもちました。
以下は高校2年生のM.Kさんによる「追悼のことば」です。
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75年前の今日、いつもと変わらない朝が始まりました。
多くの人がお国のためにと朝から働きます。私たちの先輩方も、雑魚場町の建物疎開で倒した家の整理をしていたり、第二総軍司令部に学徒動員として出かけていたり、また朝の礼拝をするために当時の専門部一年生は全員が講堂に集まったりしていました。
午前7時頃に、空襲警報、警戒警報が解除され、いつもと何ら変わらない生活が、普段通りに始まろうとしていました。
しかし、たった一発の原子爆弾によってすべてが壊されました。それは午前8時15分のことでした。一瞬の青白い閃光が広島を包み込み、地震のような地響きとともに熱風が広島を襲いました。人々は何が起こったのかわかりませんでした。でも、痛みと不安そして恐怖に襲われたはずです。川沿いには水を求めた人々が集まり、子供が「お母さん」と叫ぶ声や多くの人の「水をくれ、水をくれ」という声が辺りから聞こえていたことでしょう。誰なのか分からない姿になった人達で辺りはいっぱいだったはずです。
こうして一瞬にして普通が奪われました。夏雲には「ぼろ屑のようになった人、肩のあたりからずるりとむけた腕の皮膚が指の先からぶら下がり、裸に近い身体は人間か動物か。」とありました。爆心地に近い雑魚場町で被爆した先輩方は、どれほどの痛み、苦しみだったでしょうか?講堂の下敷きとなって亡くなっていった方々の苦しみや痛みはどれほどだったでしょうか?そして友達を助けられず、山へと逃げるしかなかった方々の辛さはどのようであったでしょうか?
時間にするとほんの数分で風景を一変させ、幸せや生活・人生を奪った、たった一発の原子爆弾の恐ろしさを思います。
私たちは何度も被爆者の方々のお話を聞く機会がありました。思い返してみてください、話してくださった皆さんがどのようにお話を始められていたのかを。「あの日、私は体調が悪くてね」「あの朝はたまたま休暇だったから家にいたのよ」と。偶然朝、いつも通りの生活が始められなかったために、命が助かったのです。しかし、生き長らえた方々の多くは助かったことに引け目を感じ、心に痛みや苦しみを抱えながら生活をしていらっしゃいました。そして、思い出すのも苦しい出来事を声にして、私たちに話してくださいました。それは、もう二度とあんなひどいことが起きてほしくない、平和を実現したいという願いからだと私は思います。
現代社会は、直接手を汚さずともスイッチ一つで人を殺すことができる時代です。ニュースやインターネットなどでは、死者の数で出来事の大きさを判断してしまう、死を数で表してしまうのです。その分、一人の命、自分の命を軽く見てしまっているのではないでしょうか。そのことこそが、平和の大切さを軽視することにつながるのだと思います。
私たちは、被爆者の方々から一人の命の重さのお話を聞き、多くのことを感じ、考えました。被爆の体験者はとても少なくなり、今度は私たちが後の世代に1945年8月6日にどんなことがあったのか、どれだけ苦しみがあったのかを伝えていかなければなりません。そして、被爆者の方々の平和に対しての願いを受け継ぎ、とるべき行動を考えていく必要があります。時には願いとは反対の方向に社会が流れていくこともあるでしょう。平和を願って努力をしてもすべてが報われるわけではありません。しかし、自分の行動次第で未来の何かが変わるかもしれません。
私はこれから出会う人も含め、多くの人と一緒に平和について考え、模索しながらも行動に移す勇気を持ち努力しようと思います。
原爆によって亡くなった先輩方、私たちに体験を話してくださった方々の思いを受け継ぐひとりとして。
今朝の様子です。