学校案内

歴史

 広島女学院は、1886年(明治19年)、砂本貞吉牧師によって創設されました。当初砂本牧師は、船員になることを志してアメリカへ渡りましたが、滞在中にキリスト教に触れクリスチャンになり、神学教育を受けて帰国しました。日本の女性に福音を伝えるべく活動し、その後地元広島市西大工町、現在の中区榎町で、聖書と英語の女子塾「広島女学会」を創設しました。

 創設から1年後、アメリカからゲーンズ先生が初代校長として派遣され、「私立英和女学校」と改名。新しい校名のもとに、広島で初の女学校としてスタートしました。それから4年後の1890年(明治23年)には、現在地の上幟町へ新校舎を建設します。さらに42年後の1932年(昭和7年)、校名を「広島女学院」とし、幼稚園、小学校、高等女学部、専門学校を併せ持つ総合学園となりました。

 ゲーンズ先生は来日から亡くなるまでの45年間、広島の女子教育とキリスト教の伝導に尽くされました。広島市はその働きに感謝し、比治山に外国人の埋葬を特例として許可します。先生の墓碑には、広島女学院の標語「我らは神とともに働く者なり」と刻まれています。1945年(昭和20年)、原爆で生徒・職員330余名が犠牲になるという惨事に見舞われましたが、困難にも関わらず広島女学院は創立の志を受け継ぎ、幼稚園・中学校・高等学校・大学・大学院をもつ総合的な学園として、多くの卒業生を輩出しています。

若き日の砂本牧師
若き日の砂本牧師

若き日のゲーンズ先生
若き日の
ゲーンズ先生

初期の上幟町校舎初期の上幟町校舎

被爆直後の女学院被爆直後の女学院

沿革

1886年10月
砂本貞吉牧師が、米国南メソジスト教会宣教師J.W.ランバス博士の援助を得て、私塾広島女学会を開く。
1887年10月
N.B.ゲーンズ宣教師が米国伝道局本部より派遣され教師となる。
1890年10月
現在の地に校舎が完成し、10月1日に移転開校。
1932年 2月
校名を「私立広島女学院」と改称。幼稚園、小学校、高等女学部、専門学校をもつ総合学園となる。
1945年 8月
6日午前8時15分、広島に原爆投下。生徒・教職員330余名の犠牲者を出し、校舎、施設のいっさいを失う。
10月
牛田国民学校の一部を借用して授業を再開。
1947年 8月
上流川校地(現上幟町)に仮校舎と講堂、寄宿舎を建て、牛田の校地より復帰。
1948年 4月
新制高等学校発足(普通科、英語科、家庭科)。
8月
高等学校木造校舎、東校地の西南側に建築。
1949年 4月
新制大学発足。牛田校地に大学英文学部英文学科開学。
1950年 4月
牛田校地に短期大学部家政科開学。
1952年12月
中学校の木造校舎竣工。
1964年 1月
鉄筋四階建の高校校舎落成。
1972年 1月
西校地に中高の体育館、プールが落成。
1983年 4月
ゲーンズ記念ホール竣工。
1984年 7月
美術教室、中学ロッカー棟完成。
1986年 9月
中学校庭藤棚「いこいの園」完成。
10月
創立100周年記念式挙行。
1988年 3月
広島女学院歴史資料館竣工(牛田校地)。
1990年 8月
中学校舎、中高図書館、事務室等東校地に竣工。
1997年 7月
アイリスセンター竣工。
2006年 9月
上空通路竣工。
2006年10月
創立120周年記念式挙行。

校歌・校章

校 歌

校 歌 校 歌

〈校歌のメロディはこちら〉

校 章

広島女学院の建学の精神を表す校章は、新約聖書中の聖句「信仰の盾」(エフェソの信徒への手紙6章16節)を象徴するものです。中に書かれているラテン語「CUM DEO LABORAMUS」(クム デオ ラボラムス)は、広島女学院の標語「我らは神と共に働く者なり」(新約聖書、コリントの信徒への手紙― 第3章9節)という意味です。中央の円形にある花は、その昔広島城跡外堀に咲いたアヤメで、泥中に育ちつつも気品のある紫の優雅と純潔を誇るこの花を、初代校長ゲーンズ先生が深く愛されたことに由来しています。

校章

「建学の精神」を表す校章
創設から脈々と受け継がれてきた本校の理念が刻まれています。

  • (1)
  • 盾の形は、新約聖書にある聖句「信仰の盾」を象徴し、罪悪と戦い、強く生きることを意味しています。
  • (2)
  • 本校の標語になっている聖句「我らは神と共に働く者なり」が、ラテン語で「CUM DEO LABORAMUS」(クオ デオ ラボラムス)と刻まれています。
  • (3)
  • 校花であるアヤメの花を図案化したもの。初代校長のゲーンズ先生が、泥の中に育ちながらも気品ある紫色に咲き、優雅と純潔を誇るアヤメを深く愛したことに由来しています。

制服

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